多言語話者の海外移住日記

変化を好み移住をくりかえす5か国語話者です。母国日本も大好き。現在は台湾。

バッハと生産性

歴代の人間の中には
「一体あなた、たったウン十年の人生でどーやってこんなに成し遂げた!?」みたいな人ってけっこういますよね。

私が一番に思い浮かぶ該当者はJ.S.バッハです。

 
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J.S.バッハはこんな人生を送っています。

バッハは1685年から65年間生きました。18歳から30歳まで主に教会のオルガニストとして何度か場所を転々とします。30歳から5年間ケーテンで宮廷楽長を務め、35歳でかの有名な名誉職、ライプツィッヒ聖トーマス教会のカントルに就任。さらに51歳からはかけ持ちでザクセンの宮廷作曲家も務め、64歳で脳卒中で倒れるまで働き続けました。

つまり生存中はおもに演奏家として活動していたということです。特に聖トーマス教会のカントルという役職は名誉だがその内容はブラックそのもの。教会の典礼で歌う一般人に伴奏をつけたり(演奏家)、聖歌隊の合唱指揮をしたり(指揮者)、さらに付属学校での指導などの教師もやらされる(指導者)!これだけでもーいっぱいいっぱいでしょ!1日が余裕で終わっちゃうよ!

しかしこれだけではありません。さらにどーんとのしかかる重い仕事は毎週新しいカンタータを作曲し(作曲家)、聖歌隊とオーケストラを指導して歌わせ(指導者2)、本番で指揮をするまで(指揮者2)。

 

カンタータって多声のオケ伴奏つきの声楽曲なのですごいたくさんの声部がある上に演奏時間約20分、長ければ30分近くにもなります。ページ数にしたら恐ろしいです。ホントこんなん毎週書くなんて普通無理です。1日20ページぐらい作曲をしなければなりません。あの時代にPCなんてありませんからすべて手書きです。1日20ページ写すだけでも大変なのに頭で考えて1から書くんです。そして作曲したらすぐに歌わせてオケを鳴らして合わせて本番。このサイクルが1週間。こんな生活を何年も続けてたんです。

このスピードで回せるレベルの音楽家なんている?いくら秋元康が歌詞書きまくってるとはいえ比べもんにならないでしょう。まさにバッハとヘンデルぐらいしか到底できない仕事だったんじゃないでしょうか。

 
私生活では2人の妻との間に20人の子供をもうけています。10人は早くに亡くなりましたが残りの10人を育てながらこの激務をこなしたわけです。しかも数人の子供は音楽家として大成しているのでお父さんとしての教育もそれなりにしたでしょう。
にぎやかな家族の中で、作曲も一人で集中して取り組める環境でもなかったでしょう。子供が騒ぐ中で頑張って書いていたのかもしれない。また2人目の妻は夫を助け写譜をよく手伝っていました。


そんな中でさらに彼は、作曲家として生涯で1000曲以上の作品を残したんです。カンタータはその一部分です。そしてその1000曲の中にはびっくりするぐらい質の高い作品が多くあります。

もーね。この人の業績。寝る時間とかどのぐらいあったんでしょうね。精神力がよっぽど強かったんでしょう。身体に限界がきて脳卒中なるのも時間の問題だったのかも。晩年に視力を失ったことも相当な無理がたたったからだったとも思えます。

 

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彼の生涯を頭に入れてから改めて(有名な)作品を見ると、どれだけこの人の音楽センスが光っていたのか、そしてそれ以上にどんなけ時間に追いまくられながらこういう素晴らしい作品を書いたんだろうかと感動して泣きそうにすらなります。

ニートで両親の家に一生住んだとしても、つまり仕事家事育児すべてする必要がなかったとしても1000曲このレベルで書くなんてまあ私みたいな凡人は不可能です。

 

しかし逆にこうも考えられます。

 

バッハは信じられないスピードで、しかも副業的に1000曲も書けたからこそ音楽のセンスが光ったのでは?

才能とかセンスとかいう前に圧倒的な生産性があったからこそ、またそれができた数少ない人だったからこそ素人に「音楽の父」と勘違いされるぐらい偉大な作曲家として後世に残ったのかもと感じられます。

 

なぜならバッハが生きていた時代の演奏会は現在のように昔の曲を何度もとりあげるのではなく「新曲」にしか価値がありませんでした。だから生産性が高くなければ作曲家として生計が立てられなかった。

実際にバッハの20歳ぐらい頃の作品とかは先輩作曲家ベームとかパッヘルベルとかブクステフーデの作品とすっごく似ています。さらにコラールとかは歌詞もメロディーもそのまま取り入れて伴奏をつけてるだけだし(その和声進行もセンスいいけど!)ちょっと応用しただけのものも多いし、著作権どころか当時はそれが主流でした。1000曲すべてが革命的に凄いわけじゃないんです。

 

だから高い生産性で作曲しているうちにいつのまにか逸脱して凄くなってしまった、のほうが大きいと私は思います。

 

バッハは非常に合理的な人で、観客の流行りを察知しそれに沿った作曲をしていました。また鍵盤楽器がちょうど発達した時代にいたことで、それに合わせた教育目的の練習曲もたくさん作りました。後世代の人間に「ピアノの旧約聖書」とまで言わせるような作品です。つまりマーケティングがとってもお上手でお金を稼ぐことにも地位にも執着していた人だったんです。依頼をうければプロテスタントというプライドまで捨ててカトリックのためにも作曲してたんだから。思想よりカネ!

だから彼の作品には、斬新で新しい作曲技法の模索とか音楽理論界に革命を起こそうとかそういう部類の冒険やこだわりは見られません。

ただ現在あった作曲技法をさらに高度なレベルに押し上げこれ以上ないぐらいの完成度を示すという偉大な功績を残しました。彼が出てこなければ古典派の出現はもうちょっと後だったかもしれません。

このことから彼は”生産性”をあげたうえで、同時に非常に”質”のいい作曲をしているということがわかります。当然ですね。生産性がいくら高くても駄作だらけなら意味がありません。

作品の質の高さは、バッハが一流の演奏家であったからだとも考えられます。家にこもらず演奏家として色々な曲を聴き学び、また弾く必要があったことで次々と頭の中に音楽を蓄積していた。

さらに若い頃から積極的に先輩作曲家に会いに行きその演奏を聴いていた。当時最先端だった作曲家にすごく興味を持ってたんです。徒歩で400キロも歩いてブクステフーデに会いに行って、相当学ぶことが多かったのか戻るのが遅れ、無断欠勤してすんごい怒られたエピソードは有名です。ヘンデルにもずっと会いたくて努力していました。生産性の高さに加えて音楽に対する貪欲さと熱心さがバッハを一流の演奏家、作曲家へと変身させたのです。

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まとめ。

 ・後世代にとってここまで重要な作曲家になったバッハを作り上げたものは仕事と家庭に追いまくられながら1000曲以上作曲したという驚異的な”生産性”がまず一つ。

・そしてその驚異的な生産性を発揮しながら、常に熱心に学ぶ姿勢を見せ続けた彼に蓄積されたのは”音楽の経験値”だった。

・その音楽の経験値が”高い質”の作品を生んだ。

 Auf Wiedersehen♪